奈良県の山奥で一人っ子で生まれ、両親と父方の祖父の4人暮らし。初の内孫ということもあり、冷徹だった祖父からでさえ溺愛され、何不自由なくわがままに育つ。

 

天真爛漫な幼少時代

女の子にも関わらず、リカちゃん人形といったカワイイものには全く興味を示さず、戦隊ものヒーローが大好きで、ほしいものは「刀」だった。見た目も男みたいだったので、小学校卒業まで「ぼく何歳?」と聞かれたことは数知れず。

夏は学校のプールと近所の川で泳ぎ、冬はマラソンに精を出し、スポーツ少女。

夏休みの登校日には決まって戦争のことについて考えさせられた。

当時の文集には、他のクラスメイトは「昔の日本は悪いことをした」と書いている中で私は、同居している祖父がソ連に連行された時の話や、隣のおばあちゃんが山の遠く向こう(大阪方面)が昼かというくらい真っ赤になっているのを見た と聞いたエピソードなどを、妙にリアルに書きつづる。

 ある日、物置から祖父の軍服や帽子が出てきて、それを身に着けて記念写真を撮る。

夏休みのキャンプでは、祖父が戦地で使っていた飯盒を持っていったものの、穴が開いていて水が溜まらず、ご飯が炊けなかった。しかも私の飯盒だけ当然ながらめちゃくちゃぼろぼろだったので、恥ずかしかった(そういうお年頃)。今なら誇らしく見せびらかす。

小学校の修学旅行は広島へ12日。当然原爆資料館も見学。入口入ってすぐに登場したやけどを負った人を再現した人形の衝撃は今でも忘れられない。

平和記念公園にある「安らかにお眠りください あやまちは二度とおこしませんから」という標ぼうに、「そうだよな。日本は悪いことしたんだから」と当然のように思っていた。

中学では特にそこまで歴史を意識したことがない。むしろ歴史は訳がわからなくて嫌いな科目と思っていつも成績は良くなかった(このころは勉強が大嫌い)。

 

ふり幅の激しさの片りんが見え始めた高校~大学時代

高校時代、といっても大学受験で日本の近現代史の面白さに目覚める。何時間でも勉強できたし、そのときに読んでいた参考書で、自分はこれまで間違った歴史観を持っていたのだと悟る。

 大学受験では高校3年生で看護大学に挑戦するものの敢無く惨敗。第二志望だった農学部に進学(環境問題にも興味があったのです)。当初、大学4年間通ってそれでも看護師になりたかったら専門学校にでも行くか くらいに軽く考えてモラトリアムを過ごしていたが、それいを友人に話すろ「やり直しがきくのは若いうちだけやで」という名言が胸につきささり、再受験させてほしいと両親を説得。だめだったら農学部に戻るという条件で、入学して2か月で休学し、再び受験勉強を開始。人生で一番勉強した期間だった。

無事に看護学科には合格。しかし大学は香川だったため、本格的に家族と離れて暮らす。

大学生時代の20歳頃、モデルに興味を持ち、はじめて1人で東京に面接に行った際、「あ、靖国神社にいかなきゃ」と思いたち、夜行バスから降車したその足で靖国に行く。何の予備知識もなかったのに、無性に拝殿に少しでも近づきたい という想いからたどり着いた「正式参拝」を行う。早朝だったためもちろん1人。あの時の空気感は今でもよく覚えている。

20歳そこそこのオンナノコが1人で朝もはよから正式参拝に来て、神主さんはどう思っていたのだろう。そしてその時に受けたモデル事務所に面接の結果は「東京までレッスンに来て(有料)」とビジネス臭がすごかったため、モデルの道はあきらめた。

後日、靖国神社から「寄付のお願い」の手紙が実家届き、その通知で祖父は私が参拝したことを知り、「よく行ってくれたね。」と褒められ、それ以降の寄付は祖父がしていたらしい。

祖母の年忌の際、従兄弟や親せきが一堂に会した時、突然祖父が戦争時代のことを語りだす。

普段祖父は無口なので皆びっくりして「おじーちゃんもうそろそろあかんのかな・・」なんて不謹慎なことを口にするものの(そこから10年近く生きて、100歳で長寿を全うしました)、私より10歳程上のある従兄弟が「おじいちゃん、あんなひどい戦争のことなんて話したくなかったんじゃないの?(そんな彼は共産党員)」という歴史否定を前提とした言葉に私は心の中でブチ切れる。

祖父は生前よく戦争のことについて語ってくれていたが、たまにしか帰省しない従兄弟はそんな事実は当然知らない。

看護師になりたい!と思って実質浪人までして進学したものの、さまざまな実習を通して自分なりに色々な葛藤があり、悩んだ末「自分は病気を治す手助けをする看護師じゃなくて、病気にならないための予防活動ができる保健師になる!!」と発起して皆が悠々自適に就職活動している中(看護師はたいていすぐに就職が決まる)、私は孤独に公務員試験勉強をする。

実習そっちのけで公務員試験対策をしていたため、実習記録がめちゃくちゃ、実習中に居眠りもするため、教員に目をつけられ、何度も呼び出される。国家試験の模試の順位は毎回ブービー。

保健師をするなら絶対奈良じゃないと嫌だ!と思っていたので就職先は奈良県内に絞るものの、ことごとく不合格。ようやく僻地の看護師に合格(といっても受験者が私しかいなかった というのが本音)。

 

ふり幅全開の20歳代から現在

就職を機に奈良に引っ越す。月に何度かは実家に帰省し、その際、祖父になるべく戦争当時の話を聞いた。祖父の戦争当時の手記があったが到底読める文字じゃなかったので、祖父に読み上げてもらいながら当時の自分の遅いタイピングで頑張って文字起こししたものの、タイピン具の遅さでうまくいかず嫌になり、そのままになっていた。

それがある日、帰省したら祖父がノートにきれいに清書してくれていた。

ノートのタイトルはその名も「大連から南京攻略まで」。でも何冊かある祖父の日記のすべてを清書していたわけではなかった とその数年後に祖父が亡くなってから知り、どうしようもない後悔に駆られる。

思うところがあり数年で保健師職を退職し、大学院に進学すると、研究室の関係から海外のフィールドワークに行くようになる。

それもとても僻地。インドのヒマラヤ(ラダック)、ペルーの奥地、エチオピアの奥地、中国の青海省、インドネシアのパプア州、などなど、個人旅行では到底いけないような場所に行かせていただいた。ここで私のサバイバル戦術がかなり身に着く。

そこでひしひしと感じたことは日本がいかに安心安全で清潔、そして「日本国民」という信頼感によって海外へのアクセスがとても容易であること、これは当たり前の権利はない ということを知る。明らかに私より英語が堪能で聡明でも、経済的、ビザの理由で渡航さえできないという優秀な若者を何度も出逢った。加えて、彼らの自国への敬愛心と態度、一方でとても親日的に接してくれた。各地へ赴く度に、先人が残してくれた「日本」ブランドがもたらす彼らから受ける我々への信頼感に感謝、そして彼らの生き様を見せていただいたこと、そして何より自由に生きる研究室メンバーと濃く時間を過ごすことで、自分の価値観ががらりと変わった。

修士課程で卒業するつもりだったものの、研究室の居心地の良さや研究の面白さにはまり、無謀にも博士課程にまで進学する。4年かけて無事に博士号を取得。

そのタイミングで何を血迷ったのか「やっぱりモデルの世界があきらめられない!」と博士号を取ったくせに就活もせずにモデルスクールに通う。そこで最初のモデル事務所に所属したものの、超ブラックだったので早々に辞め、半年間悶々としながらも今の事務所に所属。そこで更に何を血迷ったのか「海外に挑戦したい!」と思い単身渡欧し、まがりなりにミラノの事務所に所属。そこで有頂天になっていたものの、全然仕事が取れずまた落胆。そんな状況で帰国しても日本で仕事があるわけでもなく、でもあきらめずに意地で何度もミラノに渡航。その間にロンドンの事務所にも所属し、ヨーロッパと日本を行き来する傍ら、これまでのキャリアを活かしつつ時間と場所を選ばない仕事を探してフリーの医療ライターに就く。

それと同時にブログも立ち上げ、ブログセミナーにも参加しブログ仲間も増える。仲間の1人がもう1人のサイト運営者「外山周」のブログをシェアしていたのが目に留まり、記事を読んでいてもたってもいられずメッセを送る。そして交流がはじまり、このサイト運営に至る。

 

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